いや、本当のところはどうなの?

こうした、突然聞かれるややこしい質問に対しての許されうる答えとは。

 

大丈夫?調子はどう?

最近誰かにこの質問をされる度、戸惑いのようなものを感じ、時によってはフラストレーションが込み上がる。私は元気だ。食べ物も、仕事もある、支援してくれるネットワークもあるし、トイレットペーパーだってある。前にもこの質問をされた時から何も変わっていない。

何か問題があるか?いいえ。だけど本当に大丈夫なの?・・・そうでもない。

私は元気ではないのだ。しかし脳の理性的な部分は、質問をされたその瞬間、自分に元気がない理由が十分には分からなかったので、人(と自分自身)には元気だと伝えていました。

しかし不安が根底にあって、それを完全に振り払うことが出来ない。全くやる気が出ず集中力が続かない日もあるし、ちょっとした生産的な作業であっても大変な努力をしているように思えてしまう日もある。また満開の花を見て感謝の気持ちや喜びを感じる日だってある。問題はいつ気持ちが切り替わるかわからないことである。

中には理解しやすいケースもいくつかあった。生活が変化したことを気付かせる、外的な大小問わないきっかけがある。例えばスーパーの棚が空っぽになっている、ランニングしている人に「退け」と怒鳴られる、経済破綻の予想が続いている、友人が手に職が無くなってしまった、などだ。

だけど目が覚めたときに、いつもと違うと感じる日もある。それは何なのか?その答えは分からない。

分かることとしては、「普通」とは何かという我々の理解が完全にシフトしているにも関わらず、それを語る為の語彙がないということだ。「普通」という言葉の新たな定義は、極端に楽観視をしたり仕事に対しやる気があるときから謎に倦怠感があるときまで、流動的に変わっていく感情をまとめあげる必要がある。また感情の混乱や、不確かな感覚といったことも起きうる。つまりそれは「今は大丈夫だけど、ずっと今の状況が続くなら・・・」という気持ちだ。そして、全体に共通している悲しさというものがそこにはある。私達は皆、新型コロナウイルス感染症危機によって何かを失ったからだ。

 

それでは、今行うべきことは何?

新しい「普通」に皆が適応するために、するべきだと思われることをいくつか挙げてみよう。

1) 自分の基準をリセットする

誰かに「調子はどう?」と聞かれる度に、脳が普段の状態と比較してしまう。だから「ええ、まあ、いや・・・うーん、わからない」となるのだ。

三ヶ月前なら、ロッククライミングに行けなくなった、友達に会えなくなった、給料が減った、と言われたとしたら、私はそれでも「良い気分だよ」と答えるだろうか?いや、言わないはずだ。

でもその代わりに、コロナパンデミックが起きた後の普通の状態と今の自分を比べれば「実際、私はかなり上手くやれている。逆立ちだってうまく出来る様になってきたし、友人ともより深くつながれる様になってきたし、毎日の瞑想もやっと出来てきているし、ギターもまた弾けるようになってきた」と答えられるだろう。

2) 新しい「普通」に適応する

それが自分にとっては無意味なことや、適切な言葉が無かったとしても、自分がどう感じているかをできるだけ正直に、そしてきちんと表現するようにしてみよう。不安や混乱、悲しみの感情を明らかに出来れば、それだけ早く対処を始められる。

「どうしたら自分らしくいられるか―自分の中にある否定をおさえ、社会の不安因子に立ち向かおう」と書籍で書いているのは臨床心理学者のエレン・ヘンドリクセン氏で、人間の文化において、我々はどう感じているかを言い表わらせるほどの語彙は無いのだという。多くの人は、悲しい、怒り、喜びといったいくつかの基本的な用語しか知らないのだ。今こそ更にその先に挑むのに良いときだろう。そして周りの皆が同じように、自分の気持ちを言葉にしようとするのを助けてあげるのだ。友人を気にかけ、それぞれ人によって悲しみの表現が全く異なることを覚えておくのも良い。もし誰かが悩んでいる様に見えたら、こう言ってあげると良い。

「どうしたら貴方を助けられる?」

「もし何かあったらいつでも頼って」

「話を聞くよ」

そしてこれこそが力強い答えだ。

「私も」

相手が感じている気持ちは、普通のことだと思い出させてあげてほしい。もっと重要なのは、人々は皆、正に共にあることを思い出させることだ。ほぼ全地球上で、文明化が進むと同時にそのことが軽視されている。私達は共に悲しみ、共に力を無くし、共に混乱し、そしてとある日には皆でお気に入りのバーで共に自由を祝うのだ。そのとき迄、皆共に「コロナ生存者的」でいよう。

 

【GIU解説】

感染症に関するスティグマの問題は、古くは天然痘やペストなどで、持ち込んだと見なされた人々への差別と迫害が世界各地で起きたことが知られています。日本では、結核、ポリオ、ハンセン病などの差別が20世紀にも続いていましたし、1986年に日本で始めて感染が確認されたエイズ(HIV)では、個人情報が曝露され、最初の感染者が居住していた松本市のナンバーをつけた車が忌避されるなど、酷い中傷と差別が横行しました。また、2009年の新型インフルエンザ流行の際には、最初に感染が報告された神戸の県立高校生に対する中傷が酷く、制服を着て歩けなくなったなどの事態になりました。感染症以外でも、原因がなかなか分からなかった水俣病、イタイイタイ病などの公害病患者への深刻な差別がありましたし、原爆被爆者への差別、そして2011年の原発事故が招いた福島県民への言われなき差別は、今でも忘れてはならない問題です。今回のCOVID-19に関しても、個人情報がネットで拡散されたり、感染クラスターと報道された職場では職員の保育園利用や病院受診が拒否されたり、クルーズ船の医療活動に従事した関係者が非難されたり、様々な誹謗中傷と差別が横行しています。こうした事態はスティグマとして当事者を苦しめるだけでなく、当事者自身が「自分は汚れてしまった」などのセルフスティグマと呼ばれる否定的な自己認知をしてしまい、抑うつ、自責感、社会活動の回避などの心理的問題を抱えることになります。この様な歴史を歩んできた日本という国にとって、本記事の内容は非常に意義を感じまし、私自身実践をしていきたいと思います。

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